最近、野村萬斎の狂言「見物左衛門」を観た。この狂言は独り狂言である。演目で見物左衛門という名前にあるように好奇心旺盛な男で、地主の桜が盛りだと聞いてぐづろ左衛門を誘って花見をしようとするが、お相手は既に出かけてしまっていて、已む無く一人で花見に出かけるという設定である。
 花見は、誰もが友を誘って共に楽しみたいものなのであろう。しかし、当方は今迄に友を誘って花見をしたことがない。桜と云う花は実に厄介な花で、年によって見頃が定まらない。だから余計に花見をしたくなるのだろう、天気予報では桜前線だの、開花宣言だの、桜情報が登場する。
 そういうものに無縁であった者が、偶々、友たちと連れ合って花見をすることになった。最近の頻繁な異常気象から、3月の終り頃と見計らって計画したが、友の都合で、日延べとなって、4月6日となり、残桜か花吹雪を楽しもうということであったが、予想に反して当日は晴天で絶好の花見日和であった。
 花見などしたことのない者には桜の種類など知らない。同行の友が山桜が良い…、染井吉野は満開だと言っている。花見のコースは日頃の散歩道であり、寺道があり、団地の通りがあり、公園がある。季節季節に、いろいろの木々、草々が彩を添えている。無知な私でも、梅や桃、雪柳、木蓮、山吹などは知っている。梅は既に一輪の花も付けず、雪柳は盛りを過ぎていた。
 そういう花たちの咲くところに、幼稚園や小学校で、一段と華やかに咲いている。梅も桜も一際一所懸命に咲いているように思える。それで私はふと、「木々も草々も子どもたちの歓声が好きなんだよ!だから、一所懸命咲いているんだ…」と云ってしまった。同行の友は、何も言わなかった。